otonaもドキdoki

大人も大人未満の人もドキドキすることを綴ります

『シュマリ』『ゴールデンカムイ』&『熱源』

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手塚治虫の『シュマリ』が大好きで、これまでも精神的に行き詰まると何度か読んできた。『シュマリ』は北海道を舞台にした日本人の話で、アイヌの人々の生活や文化に踏み込んだ話ではない。私が魅かれたのは北海道の自然だった。それが北海道への憧れにつながって、これまで何度か旅をした。最初の北海道は昭和51年(1976年)の夏だった。上野から今はない寝台夜行列車に乗って行った。早朝の青森で連絡船に乗り替えて函館に着き、安い民宿に泊まった。函館は坂道の美しい街で、イカの刺身が美味しかった。大沼公園から見る大沼駒ケ岳が好きで、大沼公園はその後も訪れている。シュマリの舞台は石狩平野だが、今、未開拓の原野は想像できない。札幌でジンギスカンを食べて、寝台夜行列車で根室まで行った。夏なのに、食堂でストーブで暖をとりながら蟹の味噌汁をすすった。中標津へまわり、旅のゴールと決めていた野付半島へ2日連続で行った。当時のトドワラは現在よりも立ち枯れの木が多く残っていて、「この世の終わり」の風情だった。

ゴールデンカムイ』は現在刊行中の漫画。スマホで読み始めたが、こちらはアイヌの生活や文化がしっかり描かれている。(すべて事実かどうかは?)やや下ネタのモードが気にさわるが、それが現代風かもしれない。勤務していた学校の図書館にあり、生徒もかなり読んでいた。現在、東京のローカルテレビTOKYO-MX1で放送もしている。この漫画には小樽や網走の町も登場する。小学校の「社会」の授業で、日本地図を見ながら行ってみたいと思ったのが小樽の先にある積丹半島だった。実際訪れてみると、積丹半島から見る海の碧さは沖縄の海とは違った。小樽から新潟まで日本海汽船に乗ると、船は積丹岬の沖を回った。蝦夷交易船にとって難所の航路だったと知って感ずるものがあった。

北海道の中では圧倒的に道東が好きだ。釧路から根室のあたりは何度行っても飽きることがない。昔、今はない厚床駅で標津行きの列車を2時間も待ったことを思い出す。厚岸駅前の牡蠣飯は絶品。牡蠣弁当はデパートの北海道物産展でトップの人気商品だが、牡蠣飯おにぎりは出展されないので現地で食べるしかない。一昨年の冬、念願だった網走の流氷を見て、帰りに雪の釧路湿原を散策した。これもよかったが、次は夏の湿原をカヌーで巡ろうと考えている。

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 さて話題の直木賞作品『熱源』を読んだ。私は『シュマリ』では、あの厳しい北海道を開拓した日本人のドラマに感動していた気がする。もちろんそこには、虐げられ、差別されたアイヌの人々も登場するが、主脈は本土から北海道に渡った元侍や役人や囚人たちのドラマだった。『ゴールデンカムイ』には主人公を始めとするアイヌの人々の文化が詩情豊かに描かれており、日本人の非道さ残酷さも伝えられている。サハリン島やロシア人も登場し、北海道の民族的多様性も知ることができた。『熱源』の舞台はサハリン島で、先住民はアイヌとギリヤーク、オロッコウィルタ)である。流刑囚のポーランド人の民族学者とサハリンのアイヌが、ロシアと日本の政治的な思惑に翻弄される様が描かれる。私は、アイヌは北海道を主とする先住民とばかり思い込んでいた。アイヌはもっと広範に北の島々に住んでいたのだった。正直『熱源』は文章はうまくないし、サハリン島の自然やアイヌの人々が持つ豊かな感性を描ききれていない。「熱」という表現も軽薄さが漂う。アイヌについての知識が広まったことで良とするしかない。  できればサハリンに行ってみたい。無理かな。

 

 

 

津軽とトゲクリ蟹

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 昨年の4月下旬は津軽半島を旅していた。「風の音が 胸をゆする 鳴けとばかりに」と詠われた津軽海峡津軽半島の先端で見るために。できて間もない新幹線の「奥つがる今別」の駅を降りてレンタカーを借り、車で外ヶ浜、三厩を経て竜飛崎へ向かった。「奥つがる今別」の駅を降りたのは私を含めて3人だけだった。新幹線の駅だというのに駅前の静けさと荒涼感には驚かされた。本当は青森で津軽線に乗って本州最北端の駅を目指したかったが、1時間に1本しか走らない列車とはうまくリンクできず、車を借りることになった。ぼんじゅ山脈(海岸よりの山並をこう呼ぶと太宰は書いている)の東の海岸は険しく痩せている。山脈の果てる地が竜飛崎だ。岬の先端で吹く風は激しく、からだごと持っていかれそうになった。

 太宰治の『津軽』には次のように書かれている。津軽半島東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、後潟(うしろがた)、蓬田、蟹田、平館、一本木、今別等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩(みんまや)に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛の部落にたどりつく。文字どほり、路の尽きる個所である。」

 翌日は小説『津軽』に詳しく書かれた「蟹田」を訪ねた。蟹田は読んで字のごとく蟹(トゲクリ蟹)で有名な地である。蟹としては小さいが、ミソが濃厚でおいしい。津軽の人々はこの時期花見に持参して食すという。太宰はこの地で「トゲクリ蟹を皿にいっぱい出された」という。駅前に「ウエル蟹」という海鮮市場があり、茹でたトゲクリ蟹を売っている。実はこの蟹をもう一度食べたくて、コロナの騒動が収まったら蟹田へ泊りがけで行こうと決めている。

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 その後、津軽平野を南下して太宰の生家がある金木へ向かった。津軽の西側は広大な農地が広がっているが、多くは小作地だった。それらの巨大地主の一人が太宰の父である。金木町の太宰の生家(斜陽館)を訪れて当時の暮らしを想像すると、太宰が感じた「うしろめたさ」は太宰の人間性の証とも思えた。太宰が起居した部屋の襖に漢詩が書いてあり、その中に「斜陽」の文字が見える。帰宅後「斜陽」を再読した。「資産家の家に生まれた弱い人間」という評価を否定するつもりはないが、太宰が苦しんだ問題(弟直治の遺書)は理解できる。以前読んだ時の印象とはだいぶ違って、今回は生きる煩わしさを引き受けようとする決意が読みとれた。本家と分家の確執で道をはずれた経験が私にはある。それは努力で乗り越えることができない辛い問題だった。それにしても昭和のこの時期に、この文体で「斜陽」を書いた太宰の才能に改めて敬服した。

 





 新型コロナウイルスのおかげで、これまでとはまったく違った行動様式や生活を強いられている。でもいい機会だからこれまで取り組みたかったことを始めてみようと思う。このブログもそのひとつだが、まずはFace Bookでは書きたらなかったことを書くことにする。大人になるとドキドキすることが少なくなると言われるが、私はそうでもない。

 これまでに行った旅のこと、専門の数学のこと、長く仕事としてきた教育のこと、趣味の歴史のことなど、あまり人に語ったことがないことを語れば、家に巣ごもりしている人の好奇心を少しは刺激することはできるかもしれない。