otonaもドキdoki

大人も大人未満の人もドキドキすることを綴ります

津軽とトゲクリ蟹

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 昨年の4月下旬は津軽半島を旅していた。「風の音が 胸をゆする 鳴けとばかりに」と詠われた津軽海峡津軽半島の先端で見るために。できて間もない新幹線の「奥つがる今別」の駅を降りてレンタカーを借り、車で外ヶ浜、三厩を経て竜飛崎へ向かった。「奥つがる今別」の駅を降りたのは私を含めて3人だけだった。新幹線の駅だというのに駅前の静けさと荒涼感には驚かされた。本当は青森で津軽線に乗って本州最北端の駅を目指したかったが、1時間に1本しか走らない列車とはうまくリンクできず、車を借りることになった。ぼんじゅ山脈(海岸よりの山並をこう呼ぶと太宰は書いている)の東の海岸は険しく痩せている。山脈の果てる地が竜飛崎だ。岬の先端で吹く風は激しく、からだごと持っていかれそうになった。

 太宰治の『津軽』には次のように書かれている。津軽半島東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、後潟(うしろがた)、蓬田、蟹田、平館、一本木、今別等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩(みんまや)に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛の部落にたどりつく。文字どほり、路の尽きる個所である。」

 翌日は小説『津軽』に詳しく書かれた「蟹田」を訪ねた。蟹田は読んで字のごとく蟹(トゲクリ蟹)で有名な地である。蟹としては小さいが、ミソが濃厚でおいしい。津軽の人々はこの時期花見に持参して食すという。太宰はこの地で「トゲクリ蟹を皿にいっぱい出された」という。駅前に「ウエル蟹」という海鮮市場があり、茹でたトゲクリ蟹を売っている。実はこの蟹をもう一度食べたくて、コロナの騒動が収まったら蟹田へ泊りがけで行こうと決めている。

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 その後、津軽平野を南下して太宰の生家がある金木へ向かった。津軽の西側は広大な農地が広がっているが、多くは小作地だった。それらの巨大地主の一人が太宰の父である。金木町の太宰の生家(斜陽館)を訪れて当時の暮らしを想像すると、太宰が感じた「うしろめたさ」は太宰の人間性の証とも思えた。太宰が起居した部屋の襖に漢詩が書いてあり、その中に「斜陽」の文字が見える。帰宅後「斜陽」を再読した。「資産家の家に生まれた弱い人間」という評価を否定するつもりはないが、太宰が苦しんだ問題(弟直治の遺書)は理解できる。以前読んだ時の印象とはだいぶ違って、今回は生きる煩わしさを引き受けようとする決意が読みとれた。本家と分家の確執で道をはずれた経験が私にはある。それは努力で乗り越えることができない辛い問題だった。それにしても昭和のこの時期に、この文体で「斜陽」を書いた太宰の才能に改めて敬服した。